ー夏目漱石
世には、うまくいかぬ相場師がよく口にする文句がある。
「分かってはいるのですがね」
この一言には、妙な便利さがある。
分かっていると言っておけば、愚かであるとは断じられずに済む。
知らぬのではない、できぬだけだ、と自分に言い聞かせることができる。
しかし、できぬというその一点が、まさに当人の正体なのである。
頭で知っていることなど、さしたる値打ちはない。
損は早く切るべし。
利は伸ばすべし。
流れに逆らうな。
そのくらいのことは、少し本を読み、人の話を聞けば、誰でも知ったような顔ができる。
けれども、いざ含み損が膨らみ、自分の見立てが崩れかけたその場になると、人はたちまち知性を捨てる。
損切りすべきところで先へ延ばし、
負けを認める代わりにナンピンをし、
助かるはずのないものに、なお望みをつなごうとする。
そのほうが楽だからである。
実に人間は、理屈で破滅するのではない。
たいていは、気分の良いほうへ逃げた結果として破滅する。
負けを認めるのは苦しい。
自分の誤りを自分で確定するのは、なお苦しい。
含み益を握って伸ばすのもまた苦しい。
せっかく手にしたものが減るやもしれぬと思えば、人はたちまち小利にしがみつく。
つまり、勝つために要ることは、だいたい胸に悪い。
そして、負けるために足ることは、だいたい心にやさしい。
だから勝っている者が、何か晴れやかな心持ちで正しいことをしているなどと思うのは、大きな見当違いである。
勝つ者もまた苦しいのである。
ただし彼らは、その苦しさから逃げぬ。
逃げぬまま、切るべきところで切り、待つべきところで待ち、捨てるべき欲を捨てる。
その不快に耐える習慣が、やがて金を残す。
反対に、負ける者はいつも自分に親切である。
今日はもう少し様子を見よう、
ここで切るのはもったいない、
戻るかもしれぬ、
次で取り返せる。
そう言って、自分の心をいたわってやる。
しかる後に、口座だけが静かに傷んでゆく。
人はしばしば、
「分かっているのにできない」
と言う。
けれども、これは少し言葉が甘い。
分かっていながら、やらぬのである。
やるべきことより、楽なほうを選んでいるのである。
その選択が一度二度なら、まだ失敗で済む。
しかし毎度それを繰り返すなら、それは失敗ではない。
もう立派な生き方である。
相場に負けるように、自分で自分を育てているのである。
相場は残酷である。
こちらの知識の量など、少しも情けをかけてはくれぬ。
本当に問われるのは、分かっているかではない。
苦しいほうを選べるかである。
精神にとって苦しいほうを選んで、金を残すのか。
精神にとって楽なほうを選んで、金を失うのか。
答えは、たいてい最初から分かっている。
ただ人が敗れるのは、答えを知らぬからではない。
その答えに従うのが、あまりに面白くないからである。
-芥川龍之介
敗残の投機家には、一つの癖がある。
それは敗因を無知に求めぬことである。
彼らはむしろ、こう言う。
「分かってはいるのですが」
無知であるなら、まだ救いがある。
学べばよい。
しかし、分かっていながら行わぬというのは、より救いがたい。
そこには知識の欠乏ではなく、性情の敗北があるからである。
損切りは不快である。
それは、自分の判断に誤りがあったと認める儀式にほかならぬ。
ナンピンは快い。
敗北を、なお猶予してくれるからである。
人間は往々にして、真実よりも慰めを欲する。
相場においても、また同じである。
彼は正解を欲しているように見えて、その実、安心を欲している。
そして安心は、たいてい誤った行動の側にある。
ゆえに、勝者と敗者との差は、知識の多少ではない。
苦痛を受け入れる能力の差である。
勝者は己に不利な現実を見、敗者は己に都合のよい幻想を見る。
ただそれだけの違いが、やがて資金曲線において残酷な差となる。
精神に快い売買は、多くの場合、勘定において厳しい。
精神に厳しい売買は、しばしば勘定を救う。
この皮肉を呑み下せぬ者は、いつまで経っても、
「分かってはいるのですが」
という敗者の台詞を口にするであろう。
-三島由紀夫
相場において敗れる者は、たいてい愚かだから敗れるのではない。
卑しいから敗れるのである。
知っていながら、苦痛を避ける。
それが敗北の本質だ。
損切りとは、自らの誤りを、血をもって引き受けることである。
それは美しい。
ナンピンとは、その誤りを曖昧にし、現実を濁らせ、傷口に化粧を施すことである。
それは醜い。
だが人間は、美よりも安堵を選ぶ。
潔さよりも先延ばしを選ぶ。
真実よりも希望的観測を選ぶ。
その選択の積み重ねが、口座を腐らせる。
勝者は、平穏だから勝つのではない。
むしろ内心では激しく傷つきながら、なお正しい行為を選ぶから勝つのである。
敗者は、傷つくことを恐れて、誤った行為を選ぶ。
そして傷を避けた代償として、いよいよ深く傷つく。
相場は残酷だが、公平である。
気高さのない金の扱いには、決して微笑まない。
楽な方へ流れる精神に、資産を保つ資格はない。
苦しい方を選んで金を残すか。
安い慰めを選んで金を失うか。
問われているのは手法ではない。
その人間の品位である。
相場に敗れる人間は、しばしば同じ言葉を口にする。
「分かってはいるのですがね」
なるほど、分かってはいるのであろう。
損は浅いうちに切るべきであり、利は辛抱して伸ばすべきであり、熱に浮かされて飛びつくのは愚であり、恐れに駆られて投げるのもまた愚である。
そのくらいのことは、今さら教訓めいて説かれるまでもなく、本人がいちばんよく知っているに違いない。
しかし、相場というものは、人が何を知っているかではなく、何をするかだけを見ている。
そこには弁解の入る余地がない。
頭の中でどれほど立派な理屈を並べても、手がそれと反対のことをしたなら、その人間の正体は、結局その手のほうに現れる。
含み損を抱えたとき、人は急にやさしくなる。
まだ切るには早い。
もう少し待てば戻るかもしれぬ。
ここで投げるのはあまりに惜しい。
そう言って、自分に情けをかける。
あげくはナンピンまでして、誤りそのものを見えにくくしようとする。
それは無論、理性の働きではない。
ただ苦しみたくないのである。
自分の誤りを、自分の手で確定する痛みから逃げたいのである。
利が乗ったときもまた同じである。
今度は逆に、失いたくないという恐れが心を占める。
もう十分ではないか。
ここで取ってしまえば安心ではないか。
そうして、伸びるべきものを小さく摘み取り、結局は損を大きく、利を小さくする。
負ける人間は、相場が読めぬから負けるのではない。
たいていは、痛みに耐える順序を取り違えているから負けるのである。
一時の痛みを避けようとして、のちの大きな損を引き受けてしまう。
人間にとって、正しいことは多くの場合おもしろくない。
損切りはおもしろくない。
待つのもおもしろくない。
利を伸ばすために黙って耐えるのもおもしろくない。
いずれも胸にわるく、神経にさわり、今すぐ楽になりたいという欲に逆らう。
ところが、破滅へ向かう道はえてしてなだらかである。
損切りを先へ延ばすのは楽だ。
ナンピンも楽だ。
ルールを破るのも、その場では楽だ。
つまり人は、金を失う前にまず、気分のよいほうへ流れているのである。
そして、気分のよさの勘定書きが、あとで損失という形で回ってくる。
勝っている者は、べつだん気丈夫だから勝っているわけではない。
苦しくないから勝っているわけでもない。
むしろ、苦しい。
切るべきところで切るのは苦しい。
伸ばすべきところで握るのも苦しい。
何もするなという場面で、何もしないのはなお苦しい。
ただ彼らは、その苦しさから逃げぬだけである。
不快であることを理由に、正しい行いを捨てぬだけである。
そのわずかな違いが、一月後には小さな差となり、一年後には埋めがたい隔たりとなる。
「分かってはいるのですがね」
という言葉は、一見すると謙遜のようでいて、実はずいぶん自分に甘い。
分かっているのにできない、と言えば、あたかも力さえ足りれば本当は正しい側の人間であるかのように聞こえる。
けれども相場の前では、できぬことは、分かっていないのと大差がない。
いや、なお悪い。
知らぬ者は学ぶ余地があるが、知っているつもりで行わぬ者は、自分を欺いているだけだからである。
結局のところ、相場で問われているのは、知識の量ではない。
人格の立派さでもない。
もっと身も蓋もなく言えば、苦しいほうを選べるかどうかである。
今ここで痛むことを引き受けて資金を守るのか。
今ここで楽になる代わりに、のちの大損を呼び込むのか。
選択はいつもひどく地味で、ひどく退屈で、しかも残酷なほど明瞭である。
人はよく、負けたあとで、
「あのとき分かっていたのに」
と言う。
しかし、ほんとうは違う。
分かっていたのではない。
分かっていながら、楽なほうを選んだのである。
そして一度その甘い道を選べば、次もまた選ぶ。
次もまた選べば、それはもはや失敗ではなく、その人の習い性になる。
相場に負けているのではない。
自分の弱さに、毎度きちんと従っているのである。
相場は無慈悲である。
だが、その無慈悲は公平でもある。
泣き言には一銭の値もつけず、言い訳には一度も反応せず、ただ人が実際に選んだ行いだけを積み上げて、残高という形で返事をする。
そこには慰めがない。
ゆえにまた、そこにはまぎれもない真実がある。
精神にとって苦しいほうを選んで金を残すか。
精神にとって楽なほうを選んで金を失うか。
人はたいてい、どちらが正しいかを知らぬのではない。
ただ、正しいほうが少しもやさしくない、というだけのことである。


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